誇りが生んだ
学生ストライキ

小池 明子(こいけ・はるこ)

私は1938年に入学しました。ドクター・トイスラー(※)の希望のもとに、アメリカから招かれたミセス・セントジョンという方が私たちの教育に携わりました。それは朝から晩まで、緻密で厳しい寮生活の管理を通した「生活教育」でもありました。後年、それは理想の看護師としてのありがたい教育だったと思っております。


学生生活の中で大変な事件が起こりました。私が1学年の時のことでした。


上級生が、小児病棟で実習をしておりました時に、泣いている赤ちゃんを窓の方へ抱いていきあやそうとしました。その際に、どういうはずみか、赤ちゃんのお尻にラジエーターという熱い湯を通した暖房器具で火傷を負わせてしまいました。赤ちゃんの泣き叫びを聞いた看護婦長からただちに学校に連絡がいきました。


当時の指導者ミス・ホワイト(※)が病棟にやってきて、その学生に対し即座に「ゴー バック ホーム」すなわち「退学」を命じました。


その事件をきっかけに、学生一同は謀反を起こしました。それは、講義に出ない、実習に行かない、いわゆる学生ストライキでした。


当時の倫理学の非常勤講師でいらっしゃった、留岡清男先生が相談に乗ってくださいました。学生から話を聞いた留岡先生は、聖路加国際病院の竹田眞二牧師(※)に相談に行かれましたが、学生の立場からの相談だったために、牧師から話を聞いた学校側は、留岡先生をただちに罷免してしまいました。


これらのことを受け、学生は学校長に陳情すべく、代表4、5人で当時の校長でいらっしゃった久保徳太郎先生(※)のお宅に伺いました。夕方だったと思います。


久保先生は、和服をお召しになっていらっしゃいました。そしてまず、私たちに温かいお汁粉をご馳走してくださいました。それから、学生一人ひとりに、「あなたはどこの出身?」と尋ねられました。学生の事件についての話はお聞きくださいましたが、訓示などは一切なく、最後は「気を付けて帰るように」と仰りました。


アメリカ人指導者による高い看護教育の実践には今でも感謝をしておりますが、当時の学生がストライキを起こしたのは、何も調べずに退学を命じたことに対する、ひとりの人間として、また日本人としての誇りがあったからだと思います。


私にとって生涯忘れられない出来事です。私は1941年12月に繰り上げ卒業しました。太平洋戦争が勃発し翌年3月の卒業が繰り上げられたのでした。

Profile

Class of 1941.12(興健女子専門学校)。

トイスラー(Rudolf Boling Teusler)
ルドルフ・B・トイスラー(1876~1934)。米国ジョージア州生まれ。1900年、米国聖公会の宣教医師として来日し1901年、聖路加国際病院を開設。日本の医学の水準は十分でありながら、患者が回復できないのは看護が不十分だからであるとし、日本全体の看護の質向上を目指して1920年、聖路加国際病院附属高等看護婦学校を設立。

ミス・ホワイト
Sarah G. White(サラ・G・ホワイト)(1891~1972)。1931~1940年、聖路加女子専門学校教務主任。1948~1957年、聖路加女子専門学校第4代校長、短期大学初代校長。

竹田眞二(1896~1978)
築地三一神学校卒業後、聖路加国際病院勤務。1927年より司祭職となり生涯を聖路加に捧げた。

久保徳太郎(1874~1941)
1902年、東京帝国大学医学部卒業。1904年聖路加病院入職。1934~1941年、聖路加国際病院院長。1934~1940年、聖路加女子専門学校校長(1934~1937年校長事務取扱)。

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