いつか帰っていく所

渡辺 カラン 知(わたなべ•からん・とも)

受験前に父に連れられて旧聖路加病院のチャペルの入り口にあったトイスラー博士の碑を読んでもらったことを昨日のように覚えている。仄かな明かりに照らされた厳かなトイスラー博士の像の後ろにはめ込まれた小さな金属板には次の言葉があった。

This hospital is a living organism designed to demonstrate in convincing terms the transmuting power of Christian Jove when applied in relief of human suffering.
Rudolf Teusler


この病院は、人の苦しみを和らげるために有機体のように機能する。赤血球、リンパ液や筋肉などが、生命維持という究極の目的のために協働するように、人の健康に関する多職種の人が、ひとりの患者または集合体である人間のより良い健康のために協力し合っていくというイメージにとても心を惹かれた。「看護はアートである」という日野原先生の言葉と共に聖路加での看護を象徴する2つの柱として私の中に残っている。聖路加での学びは人生経験を積みながら、ある日、「あ!あれはこういう意味だったのか」と新たな側面を発見して還ってくることがしばしばある。

私は1995年に聖路加看護大学を卒業し、日本や海外で母子保健や周産期ケアなどのリプロダクティブヘルスの領域に飛び込んだ。周産期母体死亡や新生児死亡をいかに減らし、特に人道的危機(humanitarian crises)にある場所で人が必要なケアを受けられるためにどうしたらいいのか、というテーマで臨床から政策まで幅広い分野で経験を積んできた。人道的危機と呼ばれる場所の多くは、保健分野の枠組みが脆弱だったり、崩壊している。言葉や習慣、すべてが異なる環境の中では柔軟な対応が求められることが多い。臨床の医療従事者のみならず、教育・法律・人類学関係の所属団体も国も違う人々が、ひとつの目的のために協働するという、トイスラー博士の言葉を感覚的に理解できた貴重な経験となった。

一方で私事であるが娘の出産の時の出来事である。スイスの助産所で、回旋異常のために病院搬送の話が出てきた時、年長の助産師が呼ばれ、陣痛ごとに私の体位を変えさせ、あっという間に娘が生まれてきた。確かな知識と経験に基づいた技であった。“thisis art, isn't it? (これはアートだね)”感動した夫の発した言葉が、日野原先生の言葉と重なり、看護(助産)はアートであるという言葉の意味を新たに理解できた瞬間だった。

1995年に聖路加看護大学を卒業した時、助産の道を選んだ私は聖路加国際病院に就職する代わりに、経験を積んでいつか聖路加に戻ってきたいという淡然とした想いを持っていた。残念ながらそれが実現するのかはまったくわからないが、日本から遠く離れた場所で働く私にとって、聖路加はいつも「いつか帰っていく場所」であり、郷愁にも似た憧れのような気持ちを抱かせ続ける場所なのだ。

アフガニスタン・バダフシャンでの栄養調査(1999年) アフガニスタン・バダフシャンでの栄養調査(1999年)
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Class of 1995

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