全寮制生活に学ぶ

数間恵子(かずま・けいこ)

私たちClassof 1973は全寮制で入学し、その後、廃止を経験した学年です。

入学当時の大学の建物は病院と続いた東側の棟で、地下の階には道路などの地面との間に空間があって窓から光が入るようになっていました。今でもロンドンやボストンの古い街で見られる構造で、その階に図書室や体育室、浴場等がありました。

入学当初、全国で学生運動の嵐が吹き荒れていました。図書館にいた1年生の私にもそのシュプレヒコールが届いてきましたが、別世界の動きのようにも聞こえたものです。そんな時代の動きを背景にしてでしょうか、全寮制廃止を求める動きが上級生を中心として始まりました。私も上級生が委員長を務める寮則委員会(名称は定かではありません)の一員として、他の全寮制大学の規則を集めました。全寮制について大学側と学生側が2階のホールで団体交渉? をした様子が思い出されます。上級生の中には、病棟実習の合い間だったのでしょうか、青い実習着姿で熱弁を振るっていた人もいました。その後しばらくして、全寮制廃止に至りました。

地方出身の私は4年間を寮のお世話になりました。全寮制の頃は1年生が最上階の5階で、学年が進むにつれて順々に下の階に移り、各室二人制で、半年ごとに部屋と同室者が変わる決まりでした。各階には病院の交換台を介した電話もあり、外との連絡は開かれていました。

寮での毎日はベッドメーキングに始まり、看護師としてのさまざまな生活訓練の場にもなっていました。

インスペクションといって、舎監が各室内とクロゼットの中の整理整頓を見て廻るというのもありました。全寮制廃止の遠因かとも思います。土曜日午後のトイレ掃除(ナイチンゲールがクリミヤで最初に行ったこと!)も各階で部屋ごとの住人による輪番制でした。これは全寮制廃止後も続きました。

この当番では単なる生活訓練以上のことがありました。約束の掃除開始時刻に行くとすでに掃除が終わっていたり、約束の時間になっても同室者が現れず、ひとりで掃除を始めて終わったころに現れたり、結局、現れなかったり……その作業の性質もありましょうが、共同作業や約束の時間に対する姿勢がこうも違うのはなぜなのかと戸惑ったものです。

後年、教員となり、病棟実習のオリエンテーションをする際には、遅刻・無断欠席しないこと、患者さんとの時間の約束を守る大切さを伝えていました。それは学生時代のあの体験からかもしれないと思うこの頃です(perhaps‥)

キャッピング後の記念撮影 (1970年1月) キャッピング後の記念撮影 (1970年1月)
Profile

Class of 1973。元東京大学大学院医学系研究科健康科学・看護学専攻成人看護学分野教授。旧姓は古澤。

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