尽きない感謝

高木 曉子(たかぎ・さとこ)

月島に実家のあった私は、1985年3月に3230グラムの元気な娘を聖路加国際病院で出産しました。その4年後、2人目の子を授かり、まさかのエピソードと遭遇するとは、誰が予想できたでしょう。

人知を超えた、”神のみぞ知る“といった体験をここに記すことにより、当時お世話になった諸先生方、看護師・助産師、ケアをしてくださった皆さまへの言い尽くせない感謝を表したくペンをとらせていただきました。

1989年3月26日の朝、当直医とたくさんの研修医、そして担当のナースの方に支えられて、私は、986グラムの男児を出産しました。26週での超未熟児の誕生という大変な現状を前に、素睛らしいチームワークと当時の最先端の医療をもって、最善を尽くしてくださいました。何日生きられるか—ランドセルを背負う時はやってくるのか—と心配のみが増大した日々でしたが、息子は、今では建築土木系の橋梁検査の仕事に就き、やりがいを見出す大人に成長しました。

あの30年前に、婦人科を訪れた人全員に、がんの検査をしていなかったらと思うと本当にぞっとします。予定日が確定することを楽しみしていた私の耳に入ってきた先生からの第一声は、「実はね、がんの可能性があるから精密検査を—」でした。それからの日々については、この紙面には書き尽くせませんが、15週に入ってから手術を受け、「母子両方とも助けましょう」との言葉に支えられたのは事実です。

出産後、とても大変な息子の状態にもかかわらず、「みっちゃん、ごはんだね~」など他の赤ちゃんへの対応と区別なく、常に優しい声かけをしてくださったおひとりおひとりを思い返す度に、今も涙が溢れてまいります。

母子手帳とは別に、「みっちゃんノート」を作って、私が安心して子育てに取り組めるよう励ましてくださいました。まだ4歳だった娘にもガウンとキャップを着けてくださり、病院の中と外とで離れているきょうだい関係を温かく育むことを教えていただきました。また、モニターの音だけではかわいそうだということで、歌や賛美歌やお姉ちゃんの声などを録音して保育器の中に入れて聞かせてくださるというような、愛情溢れる4か月のベビールームでの日々。本当に一生の宝物のエピソードです。

これがきっかけとなり、娘は看護の道を志し、現在聖路加国際病院の産科病棟で助産師として勤務しております。

聖路加国際病院に関わる方々の医療行為、ケアの精神、最先端のさまざまを動かす人々皆さまに、神さまの豊かな祝福と格別なるご加護をお祈りさせていただきます。

息子が生まれて3ヶ月ほど経過し、保育器から出られるようになり、点滴もはずれたころ
Profile

牧師。聖路加国際大学卒業生(エピソード「4歳の夢」高木とも子)の母

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